萌芽の予感 


 私には、いわゆる前世の記憶というやつがある。海を進み、船長の為に戦ってきた記憶。船長が私の全てだった。
好きで好きで仕方なくていつも船長の背中を追いかけていた。恋愛感情とかでなく、尊敬とか、憧れとかそういう好き。そんな船長が、まさか現世の私の前に現れるなんて。


 私の働くカフェはこじんまりとした、木の温もりが感じられる様な店だ。看板メニューがない代わりに珈琲と紅茶には力を入れている。
 フードメニューと同じくらい種類があって、淹れる温度も茶葉は勿論、気温湿度に合わせて少しずつ調整して、要望があればブレンドも承っている。勿論すぐにできる訳では無いけれど、クローズの看板を出した後に一人黙々と試行錯誤するのは楽しい。
 お店は私一人が経営してるんじゃなくて、マスターと、バイトの子が二人。それで十分回せるくらいの客席しかない。そうは言ってもバイトの子達は学生だから毎日出てこれるわけじゃないし、バイトの子達が来られないテスト期間中はマスターと私の二人で回すしかないから大変だけど文句は言っていられない。
 それにここで働くのは純粋に楽しい。こんなに自分のやりたいことを通してもらえる職場は滅多にない。無論なんでもしていいわけではなくて、新しく商品を出す時はマスターに新しい珈琲のブレンドやメニューを試食してもらって合格をもらわなければならない。そうして初めてお店に商品として出せるので店を閉めた後の時間からがある意味本番だ。試食してもらう瞬間はドキドキするが、マスターに認めてもらえてメニューとして採用される瞬間が何より至福だ。この為に働いているといっても過言ではない。前世でもよく珍しい茶葉を見つけては船長にせがんだっけ。と懐かしさに表情が緩んだ。
 今日もクローズの看板を出した後、一人メニュー作りに励んでいた。今回は珈琲でも紅茶でもない。スイーツ作り。たまには珈琲にも紅茶にも合うスイーツを考えるのも楽しそうで、作りたいとずっと思っていた。
 マスターが大量に仕入れてきたレモンピューレを混ぜたチーズケーキを作ってみたり柑橘を使ったムースを作ってみたり。うんうん唸りながらオーブンに入った生地を睨む。今作ってるのはレモンを使ったシフォンケーキ。上手く膨らんでくれるといいのだけど。じっと眺め続けていたせいか、オーブンから伝わる熱で目が乾いてきたし洗い物でもするかとオーブンに背中を向けた。
 洗い物のためにスポンジに洗剤を含ませていると来訪者を告げる軽い乾いた音のベルが鳴って、バイトの子が忘れ物でもしたのかと顔をあげる。そこに立っていた人物を見て、私は持っていたスポンジを落としてしまった。まさか。

「せんちょ……」

 来訪者が怪訝な顔をするのに慌てて口を噤む。幾度となく夢に現れた前世での船長。もこもこの帽子も、流石に海賊旗は描かれていないが黄色のパーカーもジーパンも、濃い隈も。何もかもが船長だと告げていた。現世では会ったことがないのに知っているなんて怪しまれると平静を装いお店は閉まったと告げた。

「知ってる。だから来た」
「え……」
「少し、アンタと話がしたい」

 追い出すのも席を勧めるのも忘れて、ゆっくり洗い物を再開する。なんと答えればいいか分からなかった。話がしたいだって?

「あの、私たち初対面、ですよね……。あ、バイト希望の方とか、ですか? 今応募してなくて」
「おれがカフェで働くように見えるか?」

 まあ、そうですよね、見えませんとも。あれですか? もしかして船長も記憶ありってこと? それで話しかけてきた?
 クローズの看板を出してるのに入ってきたってことは、私がここで働いていると前から知っていた……?
 早鐘を打つ鼓動がうるさい。どうしよう、なんて答えればいいのか。こんな事態に遭遇した時の対処法なんてきっとどの本にも載っていない。

「……覚えてねェのか」

 そう、ぽつりと呟いた船長の声は哀愁を含んでいて。
覚えてますと反射的に答えようとしたのに船長の声に遮られてしまった。

「前に……ここの珈琲が美味いと聞いたから来た。閉店後に悪かったな」

 そのまま帽子を目深に被り、立ち去ろうとする背中を慌てて呼び止めた。

「あの、待ってください」
「……なんだ」

 タイミングよく、オーブンがケーキが焼けたと告げた。

「珈琲、淹れますから。ケーキ、焼けたので試食していってくれませんか……? あの、無理にとは言わないですが、えっと……」

 しどろもどろになる私に船長が破顔した。
 珍しい……。前世でも滅多に見られなかった笑顔がまさかこんな簡単に見られるとは。もしかして勘違いしてただけで船長に記憶なんてないのかも。そう思うと前世の話を持ち出せず結局通常通りの接客対応をするしかなかった。

「もらう」
「はいっ、すぐ淹れますね」

 懐かしい。前世でもこうやってよく船長に珈琲淹れたっけ。勉強熱心な船長に差し入れと称して持っていったり、夜リビングで眠気覚ましに淹れて二人で談笑した頃を思い出す。なんだか擽ったくて、つい笑みが零れた。

「お口に合えばいいんですけど」

 カウンターに座る船長に珈琲と切り分けたシフォンケーキを差し出す。
 そこまで甘くはないから船長でも食べられるはず。好みが変わってなければいいんだけど。

「美味い」
「良かった……!」

 ほっとして、私も自分用に切り分けたシフォンケーキを口に運んだ。うん、我ながらよく出来てる。美味しい。

「アンタ、ずっとここで働いてんのか」
「ええ、お店が開いてる時は基本」
「そうか。ならまた来る」

 そう言って珈琲に口をつけた船長に内心心が踊った。また大好きな船長と話せる。現世では流石に船長の為に戦ったりは出来ないけどこうして珈琲を淹れられる。その事がたまらなく嬉しかった。
 だって再会出来るなんて夢にも思ってなかったんだもの
命をかけて守りたいと思った、大事な人。
 いつの間にか完食していた船長を見送るべく一緒に入口に向かう。扉を開こうとする手前でそういえば、と船長は足を止めた。不思議に思い顔を上げると名を訊ねられ前世と同じ、私の名前を告げる。
 僅かに船長が目を見開いたのを見逃せないくらい船長と過した前世の記憶は色濃い。
 懐かしい声で私の名前を呼ぶからこっちが泣きそうだ。

「おれはロー。トラファルガー・ローだ」
「トラファルガーさん」
「ローでいい」

 またなと私の頭をポンポンと撫でて船長は出ていった。途端腰が砕けて座り込んでしまう。

「はあ……」

 心臓に悪い。前世でさえ、船長と呼んでばかりで名前を呼んだことはなかった。

「船長……そう言えば女たらしだったもんなあ」

 あの顔であんなこと言われたらそりゃ落ちるわ。再び早鐘を打ち出す鼓動を押え、今度は忘れずに扉に鍵をかけた。
 またなの言葉通り船長が来てくれたなら。その時こそ覚えてますと昔話に花を咲かせたいなんて。密かな期待を寄せながら。


prev / next
[back]
×